吉村竜児が出来るまで その7 ~川崎の小学校に戻る

みなさんこんにちは^^
こころメンテナンス・インストラクターの吉村竜児です。

前回までのところを書くのに、思ったより消耗していたみたいで、
しばらく休んでしまいましたが、
ようやくまた書き始める気力が出てきました^^;

小学校五年生の二学期から、ぼくは以前通っていた
川崎の小学校にまた通い始めることになりました。

ただ、今度は学区外からではなくて、学校の目の前にあった、
母の実家でもある中華料理店からでした。

祖父母と、数名の住み込みの従業員の住居を兼ねていた
この店の建物はちょっと変わった作りをしていて、
祖父母が閉店後に寝ていた部屋は、夕方から夜遅くまでは
お客さんたちが使っていた座敷を兼ねていました。

つまり、言ってみれば二人は自分たちの部屋を持っていなくて、
お客さんが帰った後の座敷に布団を敷いて寝ているという状態でした。

ぼくは二階の奥にあった、住み込みの人たちの住居と作業スペースに
使われていた一角の一部屋に移り住んで、そこから毎朝学校に通うようになりました。

担任の先生は、髪の毛が少し薄くなってきている初老の男性でしたが、
とても活発な方で、クラスの雰囲気も明るく楽しいものでした。

ルールを守らなかった子供たちへのお仕置きにも、
「ヒゲジョリ」とか「ケツびんた」といった愛嬌のある名前が付いていて、
今だったら体罰で問題になってしまうような類いの内容ではありますが、
実際にはほとんど痛くはなく、お仕置きを受けている方も笑ってしまうようなものばかりでした。

クラスには、1~2年の頃にクラスメイトだった子たちもいて、
すぐにぼくに気がついて話しかけてくれましたが、後から聞いた話では、
当時のぼくの様子が1~2年の頃とあまりにも変わってしまっていたので、
かなりおどろいていたそうです。

二年数ヶ月の間に、ぼくはすっかり暗くて閉じた感じの子供に変わっていました。

明るく楽しいクラスで、仲良くしてくれる友達もいましたが、自分の中では
何かよそよそしい感じの、この先また最悪な事態が待ち構えているような、
気持ちの悪い不安をいつも抱えていました。

実際、何週間かに一度は父から呼び出しがかかって、横浜の家に泊まりに
行かなければならないことがあり、そのことはいつもユウウツのタネでした。

ただ、そのような場合はほとんど、コウジたちと出かけるというような用事と
セットになっていたので、そこはせめてもの救いでした。

コウジたちの前では父もぼくに対して暴力をふるったり、陰湿な質問で
揚げ足取りをしてぼくを否定するようなこともあまりなかったので、多少は気が楽でした。

それに、父の病気は日々進行していたので、徐々に体力を失って、
以前のような力で暴力をふるうことは出来なくなっていました。

以前のぼくは、いつか自分の体が成長して体力で負けなくなったら、
いつか父に仕返しをして、這いつくばって泣きながら謝る父を
踏みつけてやろうと思っていました。

そのために、祖母に適当な理由をでっち上げて空手の道場に通わせてもらい、
そのチャンスをうかがっていました。

しかし、程なくして、ぼくは父のことを復讐の対象であることから
外さなければならなくなりました。

どんな内容だったかは思い出せませんが、最後に父がぼくに対して腹を立てて、
ぼくの顔を平手打ちした時、以前だったらすっ飛んでいたぼくの華奢な体は
ぴくりとも動かず、まったく痛くもありませんでした。

父の病状はそこまで進行していたのです。

その時のぼくは、悔しさと悲しさが入り交じったわけのわからない感覚で、
意味も分からずやり場のない怒りを抱えて歯を食いしばっていました。

「いつかぶっ殺してやると思っていたのに。。。コイツ、ニゲヤガッタ

そんな思いが、心の深い淵にすうっと沈んでいくのを黙って眺めているようでした。

そんなわけで、ぼくの中での父への思いや、父との関係性は、
ますます複雑化していき、父と向き合うことは本当に苦痛になっていきました。

それと比べると、小学校のクラスはとても気が楽でした。

しかし、それも五年生が終わるまでのことで、六年生からはまたいじめが始まりました。

その小学校では、通常は五年と六年の間はクラス替えがなく、
担任も同じ先生が担当するはずだったのでした。

しかし、たまたま県内の別の小学校で校長のポストに空きが出たために、
ぼくのクラスの担任が転勤することになり、急遽担任を持っていなかった
理科の担当教師がぼくたちのクラスの担任を引き継ぐことになりました。

この理科の先生は50代前半ぐらいの女性でしたが、
いつもイライラしている様子で、子供たちにもいつも暴言を吐いていたので、
同学年の子供たちのほとんどから嫌われていたと思います。

ぼくはもともと理科が得意で、授業中に先生から問題を出されても
ほとんど正解していたのですが、その度に嫌みを言われていました。

鏡に光を反射させて角度を測る実験で、ぼくの班だけが全回で正しい結果を観測した時は、

「吉村くんはどうせ本かなんかを読んで答えを知っていたんでしょ。
普通だったらちょっとぐらいの誤差が出るはずだから、
そんなに全部完璧な答えなんてあり得ないわ。
あなたみたいのは大人になってもろくな人間にならないわね」

みたいなことを言い出しました。

同じ班で一緒に実験をしていた女の子は

「私たち、ちゃんとやったのに、あんなのおかしいよね!」

と言っていましたが、ぼくは波風が立って目立つのが怖かったので、

「いいよ。ぼくは大丈夫だから、放っておこう」

と言って、それ以上はなにも言いませんでした。

しかし、他の班の乱暴な男子たちからは、

「何だ、吉村、インチキかよ!」

とヤジを飛ばされ、ぼくは生きた心地がしませんでした。

「この先生が担任じゃなくて本当に助かった」

というのが、その時のぼくの素直な感想でした。

なので、五年の担任が転勤になるという話を聞いた時、
あの理科の先生だけは来ないで欲しい、と本当に切に願っていました。

しかし、その学年で担任も副担任もやっていなかったのは
その先生だけだったので、おそらくは手が空いているからという理由で、
六年生からのぼくたちのクラスに配属されてきました。

その先生の口癖は「ホント嫌になっちゃうわ」で、何かにつけて
ぼくたちは先生から批判されたり、愚痴を聞かされたりする毎日が始まりました。

クラスの雰囲気はみるみるうちに荒れていき、学年の中でうちの
クラスだけが学級崩壊になっていきました。

他のクラスの子たちからも、楽しそうでうらやましいと言われていた
「五年三組のなれの果て」とはとても思えないような様相でした。

そして、案の定、ぼくはまたクラスの中の大柄で粗野な男子たちからの、
いじめのターゲットになってしまいました。

ただ、横浜の小学校の時と違って、味方してくれる子や、
普通に話しかけてくれる子たちはいたので、そこまでは孤立しないで済みました。

しかし、ぼく自身が彼らに心底気を許してはいなかったので、
精神的にはかなり孤立していたような気がします。

それに、小六にもなるといじめっ子たちの体もかなり大きくなっているので、
暴力の度合いが増してきて、本当に怖かったです。

その頃から、学校でのぼくの生きる希望は、中学に入ってまともな担任に
巡り会うことが出来れば、状況は一変するかもしれないから、
「それまで身をかがめて、嵐が過ぎ去るまで生き延びる」
という一点に集約されていきました。

その頃のぼくにとって唯一気が休まって、充実感を感じられていたのは
学校が終わってからゲームセンターに入り浸ってゲームをやっている時間でした。

いろいろと飲み込みも早くて反射神経も良かった年頃なので、
50円玉や100円玉ひとつで何時間も遊べるゲームがいくつもあって、
他の常連客たちと攻略法の情報交換などをしているうちに仲良くなることも出来ました。

今で言うところのオタクの走りのような高校生の友達が大勢出来ました。

この頃のぼくが絶望しないで済んでいたのは、本当にこの人たちのおかげだと思います。

 

父と暮らしていた頃はお小遣いをもらっていなかったので、
ゲームなんて夢のまた夢でした。

祖父母の家では店が繁盛していて忙しかったため、
「これで夕飯まで外で遊んでいなさい」と言われて小銭を渡されるのが日課でした。

そのおかげで、ぼくはある意味命拾いをしたと思っています。

その頃に出来た年上の友達の一人とは、30年以上経った今でも交流があります。

当時ゲームセンターに入り浸っていた学生は、いわゆるヤンキーとオタクっぽい人たちという
かなり真逆なベクトルの人たちでしたが、集まるゲーセンが違ったり、
同じゲーセンでも違うコーナーにいたりで、
けっこう上手いこと棲み分けが出来ているような感じでした。

学校にいるときは、こっちは極力おとなしくして、乱暴な男子を刺激しないように
気をつけているのに、何かにつけて向こうからちょっかいをかけられていました。

しかし、学校の外だと、ヤンキーとはいえある程度の節度は守っていて、
ゲームセンター内でちょっかいをかけてくるようなことはなかったので、
ぼくの中での学校という場所に対するイメージはますます悪くなっていきました。

そんなこんなで、ぼくは学校にいる間と放課後でまったく違う顔を使い分けるようになって、
放課後の時間と仲間たちにのめり込んでいくようになりました。

今回も最後までお読み頂いてありがとうございます^^

今回も思いの外、書くのが大変でした^^;

とはいえ、こうして書き出してみると、案外まだまだ向き合ってこなかった
心の傷が残っているのが見つかるので、それらを癒しながら書き進めるのは、
時間はかかりますが、自分自身が更に軽くなっていくのを感じています。

書く作業は大変ですが、全部書き終わる頃にはきっと
ものすごく楽になっているんじゃないかと、密かに期待しています^^

それでは、また次回もよろしくお願いします☆