吉村竜児が出来るまで その3 ~父との二人暮らし

みなさんこんにちは^^
こころメンテナンス・インストラクターの吉村竜児です。

さて、いよいよ子供の頃のぼくにとって
しんどさマックスだった時代の話に突入です^^;

書き始める前からすでにめんどくさくなってきていますが、
当時のぼくへのねぎらいの気持ちも込めて、
ちょっとがんばって書いてみようと思います^^

元気な声で「いってきまーす!」と言って
母と二人で暮らしていた家を後にしたぼくは、
父とどこかにお泊まりに行くものだと思って、ワクワクしていました。

しかし、横浜市の外れにあった小さなアパートに到着した時には、
想像していたのとは若干違う事態が起こり始めていることに
うすうす気がつき始めていたように思います。

当時父が借りていたアパートは、川崎市の隣の横浜市にありました。
横浜市と言っても一般的に知られている海の近くの地域ではなくて
大和市と隣接している山側の地域です。

たぶん山と農地だったところを切り開いて住宅街にしたようなところで、
近くには店などもほとんどありませんでした。

「今日からお前はここで暮らして、新しい小学校に行くんだ」

というようなことを父から言われた時、
ぼくは、その意味をきちんと理解できてはいなかったと思います。

ただ、じわじわと這い上がってくる気持ちの悪い不安感と戦いながら、
「ぼくはここでどうしたら良いんだろうか」と必死で頭をフル回転させていました。

しかし、状況を整理しようとしても、頭の中ではまとまらず、
父に聞きたいことも山ほどあったと思いますが、
何を聞いたら良いのかもよくわからなくて、ただ父の言葉に
「うん、うん」と相づちを打つことぐらいしか出来ませんでした。

そして、気がつくと三年生の新学期を新しい小学校で迎える事になりました。

 

川崎の小学校では転校生が出るとお別れ会や歓迎会などが行われていました。

みんなからの手紙やプレゼントが手渡されたり、

「あっちに行っても手紙書くからね!」

みたいな約束が交わされたり、といったイベントがありましたが、
ぼくは学年の変わり目で急に転校してしまったため、仲の良かった
友達に挨拶をすることも出来ませんでした。

新しい小学校でもちょうどクラス替えのタイミングだったので、
二年生の時に同じクラスだった子供たちがグループを作っていく中で
一人取り残されていくのが、かなりつらかったのをおぼえています。

クラスメイトたちにとっては、担任から転校生が来たという、アナウンスもないのに
気がついたら誰も知らないやつが教室に紛れ込んでいた。
みたいなかなり気持ちの悪い構図になっていたのだとは思います^^;

 

その後しばらくすると、ぼくたちは最初のアパートを引き払い、
近所の小さな平屋の一軒家に移り住みました。

そこはぼくの母方の祖母がぼくと父が住むために買い与えた物でした。

今思えば、ぼくの父は離婚した後も元妻の親に家を買わせていた
ということなので、正直驚きです^^;

ぼくは母と二人で暮らしていた頃は、母のヒステリーにいつも
びくびくしていたため、たまに現れる父が母とは違って、
落ち着いていて頼りがいがある大人に見えていました。

しかし、実際に父と二人で生活してみると、ぼくは父の話がほとんど
理解できていなかったことに気づき始めました。

というのも、父は当時よく

「子供だからって、子供扱いするのは本人のためにならない」

みたいなことを言って、ぼくと話す時もやたらと難しい言葉や表現を
多用していました。

わからなくてぼくが意味を尋ねても、めんどくさそうにあきれ顔をされたり、
あざ笑うような口調で

「そんなこともわからないのか?」

みたいなことを言われることが多くて、今思えばコミュニケーションが
まったく成立していませんでした^^;

その上、当時東京の会社で働いていた父は、朝早くに出勤して
夜遅くに帰ってくることが多く、日中ずっと一人でいるぼくにとって、
父との時間はどんどん苦痛になっていきました。

父は朝の出がけなどに、

「ドリルのここからここまでをやっておくように」

と言って出かけるのですが、それをやり終えてもとくにほめてくれるでもなく

「じゃあ、明日はここまでやっておくように」

と言ってページ数を増やします。

出来ていないと、殴る蹴るベルトで叩くなどの折檻が始まります。

泣きながら土下座して「すみませんでした」と何度も謝っているのに
許してもらえないという事が何度もありました。

ドリルをやり終えていないと折檻が待っていますが、
やり終えても次のハードルが上がっていくだけで、
まったくやりがいはなく、父の気が済むまで殴られている方が
気が楽だとまで思うようになっていました。

日曜日などもなるべく父を刺激しないように一人で遊んでいましたが、
たまに父とキャッチボールをさせられることもかなりユウウツでした。

小学校三年生とはいえ、かなり小柄で華奢だったぼくに、
父はいつもかなり速い球を投げてきます。

ぼくがびくびくして逃げ腰でキャッチしようとすると、

「もっと体で受け止めろ!」

みたいなことを言って、更に速い球を投げてきます。

そのおかげで、ぼくはずいぶん長い間、野球が大嫌いでした^^;

 

また、その他に、釣りにもよく連れて行かれました。

夜中の3時とかに車で出発して、まだ日も昇っていないどこかの磯で
釣りを始めるのですが、夜まで粘って一匹も釣れず、不機嫌な父の荒い運転で
家に着くのはもう深夜、みたいなことがしょっちゅうありました。

おかげで釣りも大嫌いでした^^;

大好きだった父を大嫌いになっていく過程には、いろいろありましたが、
中でも一番つらかったのは、テレビを見ている時などに父がしてくる質問でした。

「お前、これをどう思う?」

みたいな質問を父はぼくによくしてきましたが、
この質問にはぼくがどう答えても父は何かしらの理屈をこね回して、

「これこれこういう理由でお前の考えは間違っている」

「だからお前はダメなんだ」

という結論に到達するようになっていました。

最初の頃は、ぼくもまじめに自分の考えを伝えていましたが、
あまりにもいつも否定されるので、試しに自分の考えと反対のことを
答えてみたところ、やっぱり否定されました^^;

しかも、前回ぼくを否定する時に使った理屈と今回の理屈では
前提がお互いに矛盾し合っている、ということもよくありました。

その矛盾を指摘したこともありますが、

「へりくつ言うな!」

と怒鳴られてしまいました^^;

そもそもは、どうやったら父が喜んでくれる答えが出来るだろうかと
考えて試行錯誤していたのに、ぼくが論理的な思考を身につけていった結果、
ぼくの中で導き出された答えは、

「この人はぼくを正しい選択が出来るように導こうとしているのではなくて、
ぼくを否定することが目的だったんだ

という結論でした。

そして、ぼくは父のことを心の中で「」とみなすようになっていきました。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました^^

この頃は本当にいろんなことがあったので、断片的な記憶を整理して
文章にするのがけっこう大変でした^^;

しかも、書き始めてみたら、今回のエントリーで書こうとしていたことを
全部書くとめちゃめちゃ長くなることがわかり、急遽3つのセクションに
更に分けることにしました。

そうすると、当初は全14回の連載になると思っていましたが、
それだけでもう16回です。

これは下手をするともっと長くなるかもです^^;

 

さて、次回は同時期に受けていた学校でのいじめの話です。

こちらもかなりしんどい話ですが、すでに書き終わっているので、
ちょっと見直しをするだけで、すぐにアップできると思います。

お読みいただいてるみなさんも大変だと思いますが、
がんばって書いていきますので、ぜひ温かい目で見守っていただけたら嬉しいです☆^^