愛と条件に関して

コアエネルギーチューニングで採用している世界モデルに関しての話なので、実証は出来ないのですが、ぼくはこの世界のホログラムを構成している最も本質的なエネルギーは「無条件の愛」だと思っています。

(これはあくまでもぼくが採用している「モデル」の話なので、それが本当に「真実」かどうかの議論はしません。ただ、そう考えた方がつじつまが合って、今のところロジックが破綻しないですんでいるから採用しています)

ぼくたちの意識は「無条件の愛」にいろいろな条件付けをすることで、様々なエネルギーを創りだし、このような複雑で多様な形を持った世界を創り上げています。

つまり、この世界のホログラムの中にいるぼくたちが認識したり体験したりすることが出来る「愛」の形にはすべて条件が付けられています。

この世界での愛に条件がついていること自体には何ら問題はないのですが、愛の本質が「無条件の愛」だという認識ではなく、「条件」によって「愛」がもたらされているという誤解をすると、矛盾だらけの世界で生きていくことになってしまいます。

例えば、「家族の愛」という形の「愛」がありますが、この条件を「家族だから愛する」という条件だと思っていませんか?

これは、「本質は無条件の愛である」というモデルに照らし合わせると、本当は「この愛の表現からは、家族以外は除外する」という条件です。

つまり、「家族以外は愛さない」という条件が付随した「愛」だということになります。

「友達同士の友情」も「人類愛」もすべて同じです。「無条件の愛」に、「この条件にマッチしないものは愛さない」という条件を付けることで、その愛の形を表現しています。

これは「影絵」によく似た構造です。

ぼくたちが「影絵」を見ているとき、様々な形を形成しているのは「影」の方なので、ぼくたちは自分が「影」を見ていると誤解してしまいがちですが、実際に見ているのは「光」の方です。

影は光を遮ることで形を造っていますが、ぼくたちの眼球が捉えているのはあくまでも「光」であって、「影」ではありません。

つまり、様々な条件は「本質」に形を与えるために境界線を引いているだけであって、条件によって「本質」がもたらされているわけではないということです。

自分たちの本質を「愛」と捉えるか「条件」と捉えるかで、世界との関わりも自分自身との関わりも大きく変わってしまいます。

条件を増やせば増やすほど、「愛」が通り抜けてくる隙間が狭くなっていきます。

「私のことを無条件で愛してくれるパートナーが欲しい」と思っている人も、ちょっと冷静になって考えてみたら、それって条件だということがわかりますよね。

「条件1:私のことを無条件で愛すること」
「条件2:私があなたを無条件に愛さないことを、あなたは容認すること」
「条件3:私の・・・     」

なんだかロジックが破綻してきてますね^^;

この世界で「無条件の愛」を表現することは今のところは無理だと思います。

むしろ、条件付きの愛をいろんな場面で、いろんな形で表現していくことが自分の本質を多角的に表現していくことにつながっていくと思います。

大事なことは、愛をもたらしているのは条件ではなくて、愛はぼくたち全員の本質からもたらされているということです。

ぼくたちの目が見ているのは「影」ではなくて「光」です。